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お土産

清明上河図

出所:本站 作者:管理员 閲覧量:13 発表時間: 2018-07-03

 

 清明節というのは中国の24節気の中でもっとも有名な節気の一つでこの日に昔からご先祖様のお墓参りをしたり、郊遊(ピクニック)をしたり、凧揚げをしたりする風習があった。北宋の有名な画家・張択端の名作ー清明上河図は(現在北京故宮博物館所蔵)で、北宋の都・東京(開封)の清明節における社会生活の様相をまるでパロラマカメラで一瞬取ったような感じ。北宋時代の帝京の繁栄な社会風貌をリアルに描写した。

 絵の縦幅24.8CM,横幅528.7CM、当時の都の東南辺りの郊外部と都市部の様子を内容に季節は春の清明節である。統計によれば絵の中に様々な人物684人、家畜96匹、建物122箇所、木174本、船25隻、車15台、籠8つほどある。きらびやかで細かく、生き生きと描かれている。原本は国家重要文化財として北京故宮博物院に収蔵されている。

 中国では「名を争うものは朝に於くが、利を争うものは市に於く」という言い方がある。北宋のもっとも大きな大都会は当時の東京(とうけい)開封だったのでよそからの豪商、貴族、腕利きの工匠皆やってくるのではないか。ご覧のように河のほとり、、車馬の往来、賑わっている人々、橋の下を潜っている大小の船、舵を取るもの、櫂をかぐもの;城内と郊外にあっちこっち配置している楼閣、小屋、酒楼、茶店が軒をつらね。船乗りたちが危険このうえない緊張した労働に取り組んでおり、橋上と岸辺にはそれを見物する人群れがひしめきあっている。講談師、肩に荷をかつぐ者、車を推す者、ロバや駱駝を引くもの、騎馬の官吏、輿に乗った婦人等、貴人、乞食、武士、文人、道士、和尚等、身振り手振りまでも生きているような感じで分かる。

北宋時代の都東京(開封)は11世紀の中国都市文明の源で、中国の都市発展の歴史の中ではとても重要な役割を果てしている。北宋は閉鎖的な坊市制度を破り、市場経済を推進する開放的な都市構造を遂げていた。清明上河図の中ではこういう変化を語ってくれ、交通の発達と市場の繁栄等のことから我々に北宋晩期の社会風貌と経済生活、民情風景等を理解させてもらうことが出来る。絵から先ず次のことがよく分かると思う。

絵の中の建物は宋代の建築についての制度とはよく会う。宋の政府はお寺、城楼等公共施設としての建物と六品以上の官吏の住宅以外は彩色上絵と桝組みを使ってはいけないとのきまりがあったが、一般庶民の住宅なら「五架梁」しか使えない。城門を潜ってから見えた「孫羊正店」という店はいくらお金があっても建物には桝組みを一切使っていない。また、汴河の上に掛かっている虹橋は中国の有名な橋梁建築家茅以昇の測定によれば橋の長さは19.2メートルあり、橋の上の欄干と橋の仕組みはどちらも宋の建築制度に従っていた。こういうスパンがとても大きな橋のつくり方は中国の独特な発明であり、世界の橋梁建築の歴史の中でも特別な存在として注目されている。

民俗学の角度から見れば清明上河図は我々に真実的素材をたくさん提供している。たとえば絵の中にロバを載って頭に頭巾を被っている妓女、掛かっている酒の旗、入口に飾っているお酒の飾り、手に茶瓶をぶら提げているお茶の博士(?)、肘に皿などを載せている小商人、室内に食卓一つ、腰掛二つという置きかたも宋代の習慣に合致している。絵の中にまた扇子をよく見える。宋の時代では扇子は納涼、賭博、贈呈品として使う以外にマナーの道具としてもよく使う。「面便」という昔の礼儀作法がある。知り合いでも町で偶然に会って挨拶をする気が無い場合に扇子で顔を隠し、何も言わなくても別に可笑しくも無い。相手の方は帰ってこういうやり方は自分のためにもなるからと思って言わば失礼にならない。

梔子の提灯は宋代のホテルと酒場によく使う。梔子の提灯の上に熊笹の葉っぱを置いているなら、このところに女の子が付いていることを暗示している。こういうやり方も北宋政府にはよく多くの税収を収めるために黙許されていることが分かる。

髭剃り:「上善門」という城門に登る高い階段の脇に二本の棒で支えているテントが見える。よく見れば一本の方は腰掛の上に縛られている。紐の上に曲げを結んでいる長い髪の毛を飾っている。テントの中に高い襟を持つ長い上着を着る者は目を閉じ、山羊髭の老人は彼に髭を剃っていることがよく分かる。もちろん、この老人は床屋さんである。床屋のことは宋代では「刀镊工」または「镊工」と言い、同じ仕事をしている人でも生きていくために仕事をしている人と貴族や管理のためにだけ髭剃りをしている人が居る。

侵街:侵街とは不法で公共の場所を自分の商売や等のために使うこと。主に三種類ある。一つは規定の範囲外で私用の住宅を建て、官用地を占める。もう一つは大通りやメインストリートでテントや臨時用のものを建てる;次は繁華街の道端をしめて営業する。こういう現象は北宋政府は「侵街」と呼ぶ。

 北宋が立国の当初の太祖、太宗、真宗帝の時代は、市内の住民をよく収めるために、漢や唐の坊市制度を踏襲し、坊と坊の間に壁で区切り、朝なら明け、夜になると閉鎖し、いつも当番を置かれている。しかし、市場経済の発展はこういう制度は縛られた。一部の大胆な市民は禁令を無視し、壁を倒し、店などを設ける。政府のほうはこういう現象を防止するために様々な措置を立ったものの、あまり効果的なものではなかった。景祐年間になったら、やむを得ず譲歩し、町で各種の店舗を開設することを許した。坊市制度も崩壊になるに伴って、町には活気に溢れ、益々繁栄になった。とは言え、「侵街」という現象はあくまでも文明の国とは合わないものであった。絵をよく見れば十字路の所、孫羊正店の前、あっちこっちの道端、虹橋の下と上、いたるところでは「侵街」をするものがある。特に幅が8-9メートルぐらいある虹橋の上は一番酷いではないか。子商人達は1/3を占めている。

行脚僧

 清明上河図の最後の所に西から東へ歩く僧侶の姿が見える。すすきの靴に僧侶の服、背中に丈の籠を負い、籠の中に棒、笠等が置いている。腰に水を入れる瓢箪をつけていて、両手に鉄か板竹かで作った板を持ち、叩きながら歩いているような身振り。こういう僧侶は行脚僧、または雲水僧と呼ばれる。北宋の開封は僧侶達の殺到するところであり、寺院が林立していて、お寺は千以上ある。僧侶や尼は2万人ほど居るそう。

扇子

 清明上河図の中には扇子を十数か所描かれている。扇子と言っても大体団扇、羽扇、棕櫚の葉で作った団扇など3種類ある。羽扇は漢の時代から流行るようになり、最初は殆ど10羽からなるが。東晋になったら、八羽になった。羽扇子は羽化登仙との意味があるから、道士達が好きな持ち物になる。「三国誌」の諸葛孔明はいつも手に持っているのは羽扇である。清明上河図の尾の部分の十字路の東出口の南に肉屋さんがある。無精ひげの男が十数人を相手に何か言っているらしい。十数人の聴衆の仲には手に羽扇を持っている道士の姿が見える。棕櫚の葉で作った団扇は魏や晋の時代からも既に人々の生活用品の一つになった。

 

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